本日・日曜日、22時。
駅から家までの暗い並木道を歩いていたら、
4、5歳くらいの小さな女の子と、
がっしりと体格の良いパパが、手をつないでのんびり歩いていた。
んー。変だな。
時間が遅い。
それにこのぐらいの子供と日中から出かけた帰り道なら、
保護者はけっこうな荷物を持っているはず。
パパは手ぶらだし、散歩にしては遅すぎる。
なんだろう。
近づいたら、パパの歩行がぐでんぐでんで、
あっちへふらふら、こっちへふらふら。
かなり酔ってる。大丈夫かな。
ゆっくり追い越すときに、小さな女の子の静かなお喋りが耳に届いた。
「ママ来なかったね、パパ、あそこのベンチで一緒に座ろう?」
その声の様子から、一気に心配になった。
大丈夫かしら。大丈夫かしら。
脳内の妄想列車が蒸気をあげてしまうわ、一気に悲しい物語が始まってしまうわ。
息子がこの子よりも小さいときに離婚したので、子供関係の悲しい妄想は胸に来る。
家に帰って息子に電話してみた。(もう社会人だけど)
元気だった。
あの女の子の台詞も、悲しくないといいけど。
子供は親の寂しさを感じると、反射的に自分の全てを投じてその寂しさを補填しようとする。
私もそうだったし、小さな息子がそういった行動を取っているのを見たときはショックだった。
悲しいことがなければいいけど。
でも、あったとしても仕方無い。
残酷かも知れない、でも一人一人が自分に与えられた課題をこなしていく、それが全て。
人から受けた傷でも、傷をつけた人は治癒しには来てくれない。
自分がそれを傷だと認識したならば、自分で治癒していくんです。人が助けてくれたとしても、自分で。
あるいは、神様と一緒に。
おやすみなさい。
(写真:Vitor Schietti)
