• 秋山妙子

2018年の目標と立ち居地の変化


毎年はじめに、その年の目標と言うのを無理やりこしらえながら、 2ヶ月もすると全く記憶に残らなかったのですが、

2018年の目標はめずらしいタイプのが立ったのです。

「人の存在で自分の幸福度を補填しない」

これがなぜか、自分の身体に貼りついたお札のように効いて、

絶えず自分を戒めてくれます。

人の存在で自分の幸福度を補填しようとするとき、そのお札が変な波動みたいなものを出すので、立ち止まって今一度考え直しているうちに、

呼吸をするように自然だった、自分の中のある現象に気づきました。

それはどんな小さな物事を決定するときにも、人から言われたことや、どこかで読んだことを

「アドバイス的な何か」として思考に組み込み、

そーっとそれらに決断の責任を持たせていることです。

それは顔を正面に向けたまま、流し素麺を隣の人に流すような巧みさで行われ、

何か良くない事象が起きたときに、「でも私が悪い訳じゃない」的な言い訳がもっともらしく成立し、

「その人の言うことに従った私+間違った指導」

的な流れに自分を誘導でき、現実から目を背けることができるのです。

ですから私の中でいつの間にか責任を持たせられている人は、けっこう近しい人だったり、お世話になっている人だったりします。

それに気づいたときに、少なからず驚いて、これはもうやめようと思いました。

そしてそれに付随して、言い方を乱暴にすると

常に自分を、ちょっと犠牲者的な立ち居地に置いていることに気づいて、それもやめようと思った。

「あの人がああ言ったから」「あの人がこうしたほうが好いって」

あっそう、それで。

それでいいのね?そう決めたのね、誰が決めたの?「わたし」が決めた、でいいのね?

決めた結果、この先何が起きてもいいのよね?そういうことよね?

みたいな「女独特の理論詰め」みたいなことを自分にやっていくと

「ええ、、、、まあ、、、、強いて言えばそうです。」

だった自分の返事が、

「そうですよ!私がそう決めたんで、何が起きても引き受けますけど!!!」

みたいに強くなってきました。

トラウマが、過去の裏切りが。

ああ、そんな物語は、もう擦り切れるほど語りつくして、嫌なにおい。

そんなのもう、どうでもいいじゃないか。 (そもそも大した内容のものは無いし)

裏切りや支配は、受け入れる人がいなければ成立しないんだ、と思い、

過去だってその現象を自分の解釈によって大きく書き換えられるかも知れない

と考え出したところです。

これ、多分3月終わりか4月に入ってから気づいたことなんですけど、

そしたら生きている体感みたいなものが全然変わってきました。世界にも、私にも、弾力が出来た感じです。

これでもっと強くなっていくんだと実感して、嬉しくなった。

次々に沸き起こる不安が両手に発生していたら、そんなものはムチャムチャと食べちゃって滋養にするべく、

もっと神様的な何かに手を取ってもらって、手をとってもらえるような自分で、生きていきたいと思います。

やっと書けた、この一文。

今日も良い日に。 (この絵はGustave Doré)


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