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執筆者の写真秋山妙子

「グロテスクな美」


東京へ向かうバスの中で前から後ろに流れる山々を眺めていたら、いろいろな緑色の中に、あちこち薄紫が煙って輝いていた。

山藤だ。

昔は綺麗だと思っていたけど、小さな山の手入れをしている父に、「藤は切る」と言われた。

私は平和に藤が咲き誇っているものだと思っていたので、切るなんて勿体無いよ、と言ったけれど、いや駄目だ、木を枯らしてしまうんだ、と藤が巻きついている木に連れて行ってくれた。

若い杉の木を、強靭な藤の幹が、それはもうぎゅうぎゅうに締め上げて、杉の木はすっかり変形していた。

それは確かに、巻き爪とか、纏足の足とか、蛇に締め上げられて形の変わってしまったもののようにグロテスクだった。

山々の紫を見ながら、こんなにあちこちに藤が栄えていて、巻きつく木が枯れてしまったら藤だって生きていけないのに、うまく共存していけるのかしら、と思った。

バスの中で調べてみた。種の成分が木の滋養になって共存していると書く人もいれば、父の言うとおり木を枯らせてしまうと書く人もいた。

巻きつく木との相性があるだろうし、いろいろな条件があるのだろう。

どちらにしても、藤は手入れをされている山には咲いていないようだ。

静岡の川の中にあった、神様が降りる島も、緑の中に紫があった。

見た目は綺麗でも近づいてみたらぎょっとすることは、生き物である以上、ごく普通のことで、

それは残酷だったり、汚かったり、見るに耐えなかったりするけれど、

少なからず命の継続というのは、多かれ少なかれ、そういうことの繰り返しだと思う。

肉体の無い世界でもぎょっとすることがあるのかしら。

おやすみなさい。


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